お母さん。 それは、たった一度ですら言葉にすることを許されない。 音の無い、言葉。 「お久しぶりです、十一代目」 そう微笑む黒髪の女性は、どこか幼い頬笑みながらも大人の女性らしさを浮き彫りにするような笑みを浮かべていた。 「はい、ハルさん。すみません、お仕事の邪魔をしてしまって」 にっこりと、彼女に向かって微笑む。 そのたびに、何かが奥にこびりつくような、そんな気がした。 「いいえ、気にしないでください。えっと、化学でしたよね?」 「はい。ちょっと引っかかっちゃって」 本当は、答えなんてわかってたなんてことは、言えない。 初めて、逢った時から。 彼女は母親だと、そう確信を得ていた。 けれどそれを言葉にしようとした途端。 まるで、言葉を喪ったかのように、言うことが出来なかった。 いや、言うことを許されなかった、と言う方が正しい。 その頃はまだ、ママという言葉しか知らず。 ママ、ママ、ママ、と心の中で叫んでいた。 声にしたかった。 だけど、許されなかった。 後に、彼女を母親だと分かったそれは、超直感、というのだということを知った。 この身体に流れる血が、残酷なほど非情に、彼女を母親だと伝えた。 どういう理由かはわからない、けれど彼女を母親としなかった父親から受け継がれた血が、彼女を母親だと教えてくれた。 なんという、皮肉だろうか。 けれど、それと同時に母親と呼ぶことは許されないということも、その血が教えてくれた。 決して母と呼んではいけないのだと、そう呼んだ瞬間、全てが壊れるのだと。 超直感が教えてくれる。 「―――です。わかりましたか?」 「はい」 さらり、さらりとノートに書きこんでいくその白く暖かそうな手が、頭を撫でてくれたことはない。 幼いころも、抱きあげてもらったこともない。 抱きしめられたことも、事故のように触れた以外、触れられたことはなかった。 お母さん。 声にならない声を心の奥で反響させる。 言うことは許されないのだから、せめてこれくらい許してほしい。 心の中で、母としての彼女を求めることくらい、赦してほしい。 お母さん。 「ハルさんは、説明が上手ですね」 「そうですか?ありがとうございます、十一代目」 ちくり、とその言葉に胸が痛む。 吉治、とは一度も呼ばれたことはない。 結局いつまでも父と思うことが出来ない父親以外には、呼ばれることはない。 まるで記号のような、未来を図示するような、その呼び方以外呼ばれたことなどなかった。 勿論、彼女にも。 ねぇ、お母さん。 多分俺はきっと、貴方が母であれない理由を、なんとなく気付いていた。 幼いとはいえ、マフィアの世界で生まれ、育ってきたのだから。 お母さんがどうして父と一緒に居られなかったか、俺の母になれなかったか、そんなこと、なんとなくだけどわかる。 もう、素知らぬフリをして母親を求められるほど、子どもでもない。 だけど、だけど。 理由はわかるけど。 そうするしかなかったんだろうと、想ったけど。 ずっと世話係として、教育係として傍にいたから、生まれた子を堕ろすことが出来なかっただろうこともわかってる。 とても優しい人だから。 残酷なくらいに優しくて、そして強い人だから。 だけど。 お母さん。 どうして。 どうして俺の傍にずっといるの。 愛してくれることなんてできないくせに、どうして俺の傍にいるの。 母さんって、何度俺が心の中で叫んでるか、知ってる? だけど、傍にいてほしい。 お母さんに笑顔を向けてほしい。 たとえ永遠に俺の名を呼んでくれることはないとわかっていても、母親だと言ってくれないとしても。 それでも、傍にいて、俺の存在を気にかけてほしい。 お母さん、お母さん、お母さん。 大好きだよ。 ―――でも大嫌い。 |