――――その言葉を伝えられない。

 

 

 

その漆に躊躇う

 

 

 

ふと目が合った。指が触れた。視線が絡まり、手と手を取り合って。

瞼を閉じたのはどちらが早かったのだろう。初めての口付けは優しかったが、決して穏やかなものではなかった。

 

重なったと同時にぬめりを帯びた舌が侵入してくる……初めて感じる他人の熱。じわりと湧き上がるのは恐怖だろうか。

 

 

 

「……っ、ぁ……」

 

 

 

苦しくなって思わずそれを訴えようとすると、見計らったように彼はそっと唇をずらしてハルに呼吸を許した。

けれど決して止めてはくれない。一度か二度、空気を取り込んだと見るや、再び全てが隙間なく覆われてしまう。

口腔をなぞられる感覚にびくり、と肩が跳ねる。その際僅かにも濡れた声が漏れ、ハルは羞恥に再び目を伏せた。

 

 

この行為に意味はあるのか?

 

 

ふと、温度のない声が心の奥底でたゆたう。

二人は想いを通わせたわけではなく、かといってハルが、綱吉が、誰かの代わりをしているわけでもない。

なら酔った勢いで?どちらの飲み物にも、アルコールなんて入っていなかった。

 

そんなこと、唇を合わせたときから分かっている―――。

 

 

 

「ハル」

「………っ、ツナ、さん……!」

 

 

 

情欲にまみれた声で、彼は呼ぶ。行為を始めてからまるでそれしか言葉を知らないかのように、繰り返し繰り返し。

ハルも名前を呼ぶことでしかそれに応える術を知らなかった。既に全身が火傷しそうな熱に侵されている。

 

 

もう止まらない。止められないのだ、お互いに―――。

 

 

それは、一夜限りの過ちだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――会議が、あるから。そんな彼の言葉を夢うつつに聞いていたような気がする。

 

意識が戻っても、ハルは横になったまま動けずにいた。空が白むまで続けられた行為に体中が軋み悲鳴を上げている。

それでも窓から降り注ぐ光に何とか重い瞼を押し上げると、視界一杯に見知らぬ天井がうつった。

他の場所になら幾度も足を踏み入れたことはあったが、そう、この部屋に入るのは初めてだった―――。

 

 

沢田綱吉が保有している家の最もプライベートな場所、ここは彼の寝室である。

一年ほど前までは自分から押しかけていたが、最近はめっきり来なくなったこの屋敷に呼び出されたのは昨日のこと。

話があるから、と深刻そうな顔で言われてやって来たのだ。ある種の予感を抱きながら。

 

 

(ツナ、さん……)

 

 

ハルはひとりだった。全てを捧げても良いと思うほど愛している男の、寝室の中で、ひとり。

連れ込まれたというのは正しくない。彼女自身、心の奥深くではそう望んでいたのだから。

ただ―――。ハルはろくに動かない両手を何とか持ち上げ、滲む涙を何かから隠そうとでもするようにそのまま両手で顔を覆った。

 

 

 

最初で、最後。一夜限りの行為は酷いものだった。もちろん決して乱暴にされたのではない。

ただ、日が沈んでから昇るまでの何時間も、ハルは数分の気絶すら許されず、何度も何度も拒絶できない優しさでもって―――。

 

愛された、わけではない。それはハルも同じだった。その行為で彼を愛したわけでは、ない。

そういった言葉を交わさず、お互いの名前だけを呼んでいた。馬鹿みたいに。

しかしそれでも綱吉は行為そのものさえ初めてだったハルを容赦なく追い詰め、暴き、最後には悦楽さえ覚えさせてしまった。

 

 

過ちだった、と、思う。共に歩く未来がないのなら、一度でも手を伸ばすべきではなかったのだ。

けれど。ああ、けれど。そうでもしなければ耐えられなかったのだ――――お互いに。お互いに!

 

 

 

 

 

ハルは昔から沢田綱吉が好きだった。恐ろしい世界に行ってしまうと知ったとき、付いていくことを選べるほど。

その世界があまりにも厳しく、残酷で、綻び始めた華さえも握りつぶされるようなところだということを除けば、

三浦ハルは間違いなく幸せだった。―――いつかは、と、希望をいつまでも捨てられずにいた。

 

イタリアのマフィア、その頂点に君臨するボンゴレファミリーの、ボス。ドン・ボンゴレ。

その立場がどれだけ制約を受けるか、どれだけの人間の上に立ち、どれだけの利用価値があるのか。

 

ドン・ボンゴレに付随するもの全てが厳重に管理されるのは当然のことだった。………その、妻、の位置さえも。

守護者ではない、何の後ろ盾も家もないハルには、最初から選択肢など残されてはいなかった。

長く続くその歴史に――――どれだけ努力しても、敵わなかった。きっと綱吉自身だって。

 

 

(……愛しています、ずっと、ずっと)

 

 

彼が本当にハルのことを好きだったかどうか、それにほんの少しも同情が含まれていなかったのか、なんて分からない。

でもこの行為をしている間、今すぐ息が止まってもいいと思えるくらい、ハルは幸せで幸せで堪らなかった。

本来なら触れることさえ許されない状況に囲まれていながら、それでも、綱吉は手を伸ばしてくれたから。

 

 

もう、いい。心穏やかにそう思えた。好きだった。愛している。その気持ちはこれからも色褪せることはない。

でもその感情は今となっては邪魔になってしまったから、だから、この夜の記憶と共に胸の奥底にしまおう。

 

 

いつまでも輝く宝物のように。一生消えない傷のように。

 

 

 

 

―――――――墓の、中まで。

 

 

 

その日は、ハルが仕組まれた見合いをして――――それを「受け入れて」から、丁度一週間後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無理だ。と、年月を経てすっかり少年に成長したリボーンは、帽子を少し下げて目元を隠しながらそう言った。

どれだけ望んでも、『三浦ハル』は『沢田綱吉』の愛人にしかなれない。正妻に据えるのは不可能だ、と。

 

冷静さを失わない声は、震えてもいないのになぜか……なぜか、今にも泣いてしまいそうだと、思った。