なんてこと。――――なんて、ことを。

 

 

 

その漆に躊躇う

 

 

 

長期の出張のためイタリアから出て、遠いアメリカまで出向いてきた。仕事はまだまだ終わらない。

あの夜から既に三ヶ月。ハルは以前とは見違えるくらいに心穏やかに日々を送っていた。

婚姻届を出す日が刻々と迫っていることにも、嫌だとか、そういった負の感情は覚えなかった。

 

それもこれもみんな全部、見合い相手となった彼のおかげだろう。………ふと、自嘲の笑みが零れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

見合いを受ける、と、少し忙しくて電話でそう連絡してしまった彼は、けれど静かに笑ってありがとう、と言った。

お礼を言われることではない、と罪悪感にかられて言うと「お互い様だから」という言葉が返ってきた。

 

お互い様――――。利用しているのは、お互い様。暗に含まれた明白な意味にはっと息を詰める。

でもすぐに彼が言っているのは『家柄』のことだと思い当たって、こちらも笑って言葉を濁した。

 

 

 

―――――その認識が甘かったと思い知ったのは、最終調整という名目で彼に会いに行った時のこと。

 

 

いつものようにティーテーブルを囲み、紅茶と今日は甘さ控えめのクッキーをつまみながら当たり障りのない話をする。

彼はこの間、情報部主任という立場上結婚式のような目立つパーティーはしない方がいいという結論を出した。

権力を誇示する為にか随分と彼の家が式に拘ったそうだが、何とか説得してくれたのだという。

危険は危険かもしれないが、逆にその状況を利用して不穏分子を炙り出す選択肢もないわけではないのに。

 

それに甘えていいのだろうか、と、漠然と思った。彼はなぜかハルの気持ちを読んでいるように動く。

確かにこれは見合いでお互いの気持ちなどない結婚で、だから本当は、純白のドレスなど着たくはなかった。

彼以外と指輪を交換して、彼以外と誓いの言葉を交し合う――――考えただけでも、辛くて。

 

完全に吹っ切るには、あまりにも想い続けていた時間が長すぎる。………それはもうどうしようもないことだった。

 

 

 

「家をね、新しく用意しようと思うんだ。僕の家は少し……そう、広すぎるからね」

「……そう、ですね。私の家も、二人で住むには狭すぎますし」

「寝室はふたつ、別に作るよ。それから――――ハル」

「はい?」

 

 

 

耳に心地良い落ち着いた声。五つほど年上な彼は、何やら表情を改めてこちらに向き直る。何だろう。

思わずハルも紅茶のカップを置き、姿勢を正しながら続く言葉を待つ。彼はそれに少し笑ったようだった。

 

 

 

「うん、あまり気負わないで聞いて欲しいんだけど」

「………ええ、はい。何ですか?」

「まず―――この話を受け入れてくれてありがとう。意に沿わぬものだったろうに」

「そ、それは!……あなたも、同じじゃないですか」

「…………。そう、だね」

 

 

 

知って―――いる、のだ。ハルは。己の立場からして、相手の素性は調べ上げなければならなかった。

下手に悪い相手を選んでしまえば、ボンゴレ、ひいては綱吉にまで迷惑が掛かってしまう可能性がある。

 

だから彼が見合いの直前まで付き合っていた女性が居ることを知っていたし―――その人を、切り捨てたことも知っている。

 

 

 

「何しろ、突然のことだったから………正直、気持ちの整理はまだ出来ていないんだ」

「………………………」

「ハル。確かにこの数ヶ月で、君には惹かれている部分もある。けれどやはりまだ愛しているとは言えない」

 

 

 

――――お互いにね。

心にずきりと突き刺さる言葉に、しかしそれが彼の真情の吐露だと理解してハルは唇を噛み締めた。

 

そっくりそのまま同じことを彼に返したかった。数ヶ月。結婚を決めてからは二ヶ月とちょっと。

自分で決めたことだからとハルは積極的に彼と会い、会話し、お互いを知り、申し分のない相手だと分かった。

心が追いつかないだけで。―――諦めきれない感情が、悲鳴を上げているだけで。

 

それは彼にとっても変わらないということだろうか?もちろん、彼が望むべくもない結婚なのだから当然だろうが。

 

 

 

「だから―――少し考えてみたんだ。どうせ逃れられないことなら、と」

「もう決まったこと、………ですよね」

「そうだよ。だったらこうしよう、ハル。これは『結婚生活』ではなく、『共同生活』だと思って欲しい」

「………え?」

「まず友人から始めよう。茶飲み友達……うん、中々悪くないね」

「それって――――あの、」

「そして僕たちはルームシェアをしている。家賃は折半、家事はお互いが出来るときに」

「…………っ!……」

 

 

 

なんという、優しさだろう。それが彼自身の為であることは疑いようもないことだ、けれど。

 

彼のハルを見る目に浮ぶ光は、まさしく「同情」の光で、………彼は気付いていたのだ。いつから?

ハルに想い人がいることを。いた、ことを。その人が今でもこの先も忘れられないでいるだろうことを。

 

 

 

「急がなくていいと、思ってる。“家”は所詮、繋がりさえ出来ればいいみたいだから」

「―――――――」

 

 

 

どんな言葉もこの場には相応しくないような気がした。謝罪するのも、―――お礼を言うのも、多分。

彼は終始穏やかな笑顔のままだった。周囲から見れば本当にただの世間話をしているように見えるだろう。

 

ハルは彼を利用する。そして彼もまた、ハルを利用する。その選択を後悔する日などきっと訪れはしない。

 

 

 

「お互い、そうなるのが自然だと思ったときに、夫婦になろう。

 

その日が永遠に来なくても構わないから」

 

 

 

ここで、私と彼とは『共犯者』になった――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建設的ではなくても、それはハルにとって新しい一歩だった。この先を生き抜いていくための。

三浦ハルが三浦ハルとして存在するには、必要不可欠な選択だった。選べたのだ。………それなのに。

 

気付けば、見知らぬ場所――――アメリカ国内のとある病院の一室でハルは横になっていた。

確かその日の仕事を終え、泊まっているホテルに帰る為部下と離れたところまでは覚えている。

ああ、そういえばその後、どこかの店の前で気が遠くなって、そのまま倒れてしまったのだ。

 

 

(貧血………?)

 

 

恐らく親切な通行人か店主かが救急車を呼んでくれたのだろう。荷物も盗られていないようでほっと息をつく。

しかし目を覚ましたハルのところへ、にこにこと笑顔を浮かべたナースがやって来たときに。

 

 

 

全てが、壊れた。

 

 

 

「おめでとうございます!三ヶ月です」

「……………さんか、げつ?」

「あ、やっぱりご存知なかったんですね。駄目ですよ、もうこんな寒い格好しちゃ」

 

 

 

―――――貴方、お母さんになるんだから。

 

 

その台詞が、ハルを、絶望のどん底に叩き落した。