ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、―――――でも。
その漆黒に躊躇う
一夜限りの行為。未来のない繋がり。相手の熱を感じることで精一杯で、そこに気が回らなかった。
………というのは言い訳だろう。その行為があまりに嬉しくて、あまりに苦しくて、他の事などどうでも良かったのだ。
あの夜から一度も、見合い相手の彼とだってそんな行為はしていない。恐らくこれからもしないだろう予感があって。
だから―――――この身に新しく宿った命が、誰の血を引いているか、なんて、考えなくても分かる。
今日は泊まっていっていいですよ、と優しくナースがそう言って病室を出て行った瞬間、ハルは口元を両手で覆った。
全身の震えが止まらない。どうしよう、どうしよう、どうしよう!ざぁっと血の気が引いていくのが分かった。
「赤…ちゃん……?」
たった一夜の過ち。しかし逃げることなど許さないとでもいうように、命が、ここに在る。
――――愛おしい。そう思ってしまう自分を殺してやりたいほどに、暖かな感情が後から後から湧いてきた。
全身全霊で愛した男の子を授かって、喜ばない女がいるだろうか?愛しい、愛おしい我が子―――。
無意識に下腹部を撫でていると、ふと、いや漸くというべきか、冷たく残酷な「現実」がハルを襲った。
この命を産めば、それは男であれ女であれ『ドン・ボンゴレ』の子供ということになる。
もしその事実が露見すればどうなる?後継者候補をボンゴレファミリーが野放しにするわけがない。
沢田綱吉のような存在が特別だったのだ。今、彼の他に色濃くブラッドオブボンゴレを継ぐ存在はいない。
後継者候補は全てイタリアで抱え込んで育てていくのだろう。その為の「正妻」であり、その為の「愛人」だ。
(もし、……ばれてしまったら……)
その母親である三浦ハルは同じく囲い込まれてしまうと容易に想像がついた。「正妻」ではなく、――――「愛人」として。
愛人となることが耐えられないから離れたのに。望まぬ見合いを受け入れ、隣ではなく傍に在ることを選んだのに。
ばれたらおしまいだ。ハルがどう足掻いたところでボンゴレの慣習の名の下に「愛人」とならざるを得なくなる。
そして一生隣に立つことも出来ず、そのまま彼が他の女性と愛し合い子を成すさまを見ていなければならないのか。
それが出来ないから!狂ってしまうだろう事が分かっていたから、あの夜、その言葉を口にしなかったのに!
好きだと。愛していると。想いをはっきりと告げてしまえば二度と離れられなくなる。
愛人という立場ですらも、近い将来自分の心が壊れてしまうだろうと分かっていて、受け入れてしまうほど。
「嗚呼――――」
愛しい、と思う。この存在を否定するなんて出来やしない。産まずに殺してしまうなど、それこそ死んだ方がマシだ。
だからといってこのまま妊娠という事実を隠し通すなんて不可能に近かった。腹はどうしても膨らむ。みるみるうちに。
冷えた指先を握りこんで、ハルは白いベッドの上で膝を抱え込んだ。そのままゆっくりと目を閉じる。
共に過ごしてきた仲間の誰にだって相談できない。そう彼らにだって、慣習は変えられなかった―――――。
三ヶ月。仕事のスケジュールを考えると、イタリアに帰る頃にはもう五ヶ月を超えることになるだろう。
“彼”と結婚する……婚姻届を出すまで、あと一週間。もう戻る道など存在しない。
「―――――ごめん、なさい」
(ごめんなさい、ツナさん。私はどうしても、この子を諦める事が出来ないのです。
それなのに貴方の愛人になることが耐えられない。貴方の為を思えばその程度のこと、受け入れなくちゃいけないのに。
もうどうしようもなくて、ああ―――本当に、…………ごめんなさい)
どうすればいいのだろう。何を引き換えにすればいいのだろう。綱吉を傷つけるかもしれなくても、この子を譲れない。
お世話になったナースから日常生活に関する色んな諸注意を受けて、ハルは次の日に退院した。
出張に同行している部下には、貧血で倒れたから昼から出勤することを告げ、とりあえずはホテルに舞い戻った。
(………暑い……)
酷く喉が渇いていた。冷蔵庫からペットボトルを取り出し、焦らずゆっくり口に含む。考えるのは今後のこと。
「一度イタリアに帰って、……それからまた長期の出張を入れて、」
身重の状態で出来ることなど限られているが、上手く調整できればある程度の時間は作れる。
職権乱用など今まで決してしなかったし、まさか自分がするわけがないと信じていたのに、不思議なものだ。
他のことを何も考える余裕は少しもなかった――――この命を育てていくこと以外、は。
これが母親という生き物の本能なのだろうか?たった一日で自分の意識が根本から変わるなんて。
しかしそうして無事出産出来たとして、それからのことが全く思いつかない。
ボンゴレの血を継ぐ者であることをいつまで隠しておける?ましてや、その力がハルにあるかどうかさえ定かではない。
ひとりで抱え込める範疇を超えている。でも誰にも知られる訳にはいかなかった。
――――それとも、産まれてくる子供のためには全てを受け入れるしかないのだろうか。
中身が半分ほどに減ったペットボトルをテーブルに置き、ハルが深い深い溜息を吐いた――――その時。
部屋に甲高い電子音が響いて、心臓が飛び上がるほどに驚いた。携帯が着信を知らせている。
ニューヨークに居る部下から?それともイタリアからだろうか。慌てて携帯を手に取ったハルはそのまま硬直した。
表示されているのは数字の羅列。電話帳には登録していない番号だが、ハルはずっと昔にそれを頭に叩き込んだ。
沢田綱吉の、ボンゴレとは全く関係のない、本当にプライベートな携帯の番号――――。
ハルは数秒出ることを躊躇ってしまった。あまりにもタイミングが良すぎて。あるいは悪すぎて、か。
ボンゴレで何かがあって情報部主任に連絡を取る必要があったのなら、彼はこの番号を使ったりしない。
あくまで私用。あくまで、プライベートな連絡だけをする、携帯。
そしてこの時間既に仕事を始めているだろうことは気付いている筈なのに、今、電話を掛けてきたこと。
「……ハル、です。あの、どうしたんですか?こんな時間に」
『っ、ハル……!いや、ごめん。いきなり掛けて』
「大丈夫ですよ!でも珍しいですよね、ツナさん。何か……あったんですか?」
『―――――ハル』
「はい?」
『あの、さ。――――何か、あった?』
「……………え?」
――――まだ決まった訳じゃない。ハルはそう自分に言い聞かせた。彼が気付いているとは限らない。
超直感の力は確かに凄いものだけれど、決して万能ではないことをハルは知っている。
「ツナさん」
『……ん?』
「もう、何で分かっちゃったんですか?実は昨日、貧血で倒れちゃったんですよ!」
『倒れた?!って、大丈夫なの、ハル!』
「病院で点滴を受けたから平気です。ちょっと油断してたみたいで、最近寝不足が続いてましたし」
心配させちゃってごめんなさい、と努めて明るく話す。仕事が忙しいのは事実で、恐らく倒れたのはその所為でもある。
嘘ではないと判断したのかさもありなんと思ったのか、少しの会話の後、綱吉は優しくこちらを気遣って通話を終えた。
あの夜のこと―――を、あれから自分達が話題にすることはなかった。なぜか自然と「元の関係」に戻れたから。
あの行為に意味はなくても、あの夜がなければきっとハルは、綱吉への想いを表面上だけでも諦めること、さえも出来なかった。
たった一夜の偽りの逢瀬で、子供が出来てしまったこと。
本来ならば真っ先に彼に相談すべきことなのに――――いや、誰に聞かれているとも知れない電話などで話せるものか。
ハルは自分がどの道を選ぶべきなのか決められないままに、そっと命が宿る場所に手を当てた。