全てが、――――断ち切られた。
その漆黒に躊躇う
結局ハルは誰にも何も言うことなくその時を迎えた。細心の注意を払って、気付かれないように。
共犯者となってくれた彼にも告げる訳にはいかなかった。………この事には絶対に巻き込むまいとした。
スケジュールを上手く組み合わせた生活。お腹が目立ってからは、やはり長期の出張を入れた。
もちろん、仕事は仕事として最低限はこなしてきたと自負している。主任の後継者を育てる為という名目で大事な仕事も分配して。
少し太ったのか?なんて仲間に冗談っぽく言われた時には、怒った振りをして動揺を押し隠した。
(…………ごめんなさい)
傍に置かれた揺り篭の中、泣き疲れたのか静かにすやすやと眠る赤ん坊。その愛らしさに思わず頬が緩む。
同時に鼻の奥がつんとしてハルはゆっくりと瞼を閉じた。訪れる暗闇に浮かぶのは――――ただ一人。
イタリアから遠く離れたこの土地にあるこの病院は、飛び入り同然だったハルにも酷く優しかった。
恰幅のいい助産婦さんに助けられ無事、命を産んだ。もちろん痛い、なんて軽い表現で済まされるものではなかったけれど。
散々泣き喚いたような気がするし、抑えてくれていた女性の腕をあざになるほど掴んでしまったとも思う。
(本当に、――――)
彼女達の腕が良かったのか、そもそも安産型だったのか、ハルのお産は比較的短い時間で済んだらしい。
らしい、というのは、痛かった、という記憶以外残っていないからである。意識がはっきりしていたのは最初だけだった。
女性達が必死で励ましてくれる声を虚ろに聞きながら、それでも、唐突に響いた新たな泣き声にどれだけ安堵したか―――。
蜂蜜色の髪。柔らかな口元。産む、ただそれだけを考えて守ってきたその赤ん坊は、驚くほどに彼に似ていた。
彼を知る人間ならば一瞬で誰もが納得するだろうほどに。疑うことすら出来ないほどに。
もっと言えば、かつて彼の実家で見せてもらったことがあるアルバムに収められた、赤ん坊の写真とそっくりだった。
唯一違うところがあるとすれば、その漆黒の瞳――――。淡い色を纏う子供にたった一点現れた、ハルの、痕跡。
ごめんなさい。何度も何度も、声にならない謝罪を繰り返す。ごめんなさい、どうか、…………どうか。
ハルはベッドから立ち上がると、廊下に面した入り口から隠すように赤ん坊を胸に抱いた。起きる気配は、ない。
窓から見えるのは一面の麦畑だった。金色に輝くそれはまるで魔法の絨毯のように風に吹かれ揺れている。
その――――景色の、中に。ひっそりと、しかし無視できない存在感を持った、一台の車が停まっていた。
マフィアがよく使うような高級車ではない。けれど、ハルは何度もそれを見たことがある。―――乗った、こと、さえ。
「――――そうじゃないかと、思ってた」
優しさが滲む柔らかい声が、背中の向こうから、した。ハル。宥めるように名前を呼ばれても、動けない。
今日という日をどれだけ細心の注意を払って迎えたのか、この場所をどれだけ用心して選んだのか、彼は知っているのだろうか。
「流石に、………間に合わせるのは苦労したよ。あと、……一人でここに来るのも、ね」
反応しないハルを全く気にしていないような素振りで、でも彼はさらりと恐ろしいことを言ってのけた。
ここはイタリアじゃない。マフィア関係者に漏れるのを恐れて国外へ出てきたのだ、遥か遠く、遠くへ。
その道程を一人で来たというのか。彼は、―――沢田綱吉は、ボンゴレファミリーの十代目ボスなのに。
「…………どうして、ですか」
「どうして、……ね。……うん。謝るつもりがないから、かな」
「………え?」
何を。聞いてはいけない言葉を聞いたような気がして、ハルは思わず振り返ってしまった。
あの車を見つけた時点で、何故黙っていたんだ、とか。色々責められても仕方がないことをしたと覚悟した。
しかし予想に反して、そこには至極穏やかな表情をした綱吉が、扉に凭れかかるようにして立っている。
彼はハルと目が合うとにっこりと笑みを深め、そしてもう一度同じ台詞を繰り返した。
「俺は、謝るつもりはないよ」
その瞳に宿る、どこか陰鬱とした光。謝る―――とは、何に対して?あの夜のことだろうか?
でもそれは二人の間で既に暗黙の了解のように、終わったことの筈だ。彼は何を言っているのだろう。
ふと、腕の中で赤ん坊がむずがるように身を捩じらせ、自然と意識がそちらに向かってしまう。
そうだ、自分こそ何をしているのだろう。彼がここに来る理由なんて、最初からひとつしかない。
「…………はは、何だか、分身を見てるみたいだ」
「――――――」
「どこもかしこも柔らかいなぁ。………ちょっと、抱いて、いい?」
「……………もちろん、です」
この声は、震えていなかっただろうか。ゆっくりと渡した命に、この腕は、すがり付こうとしなかったか。
綱吉の手に渡してしまえばもうそれが終わりだと分かっていた。母と、決して名乗れないことも知っていた。
ごめんなさい。この謝罪は誰に対してものか。ごめんなさい。………ごめんなさい。
「―――男の子、なんですよ」
「なるほど。道理で結構重いと思った」
「本当に、………ツナさん、そっくりでびっくりしました」
「うん。実は俺もびっくりした」
意味のない会話。未来のない関係。二人を繋いでいた「結果」は、産まれたその日にハルの手からすり抜けていく。
これからどうするのか、この子はどうなるのか。ハルは、綱吉の愛人にならなければならないのか。
じわりと目の端が滲んで――――しかしそれは、雫になる前に大きな手で拭われる。
だが触れる指先の優しさとは裏腹に、その直後に降ってきた声はどこか遠く、空虚な印象を受けた。
「ハル。……出張はいつまで?」
「………っあと、………三週間ほどを予定して、ます、けど」
「そっか。じゃあ―――ゆっくり身体を休めて、帰っておいで」
君は何もしなくていいから。綱吉の言葉は、はっきりとそういう意味を持っていた。
産まれたばかりの赤ん坊を乗せた車が静かに街から離れていくのを、ハルはただぼうっと眺めていた。
病院の人達は心配しているだろう、書置きひとつを残して、病み上がりの身体で出てきてしまったから。
別れは本当にあっけなかった。綱吉はそれについて何一つ語ろうとはしなかった。聞くな、と牽制されたのだ。
まるで夢のような日々だった――――この身に宿った命を抱いて。未だに残る下腹部の痛みが現実だと教えてくれる。
それさえもいつかは消えてなくなるのだろう。…………そして、ハルには何も残らない。何一つとして。