さようなら。
その漆黒に躊躇う
三十五歳になった春。――――ハルは、ボンゴレ情報部主任を辞めた。
沢山の人から顧問として残らないか、と勧められたが全て断り、出ていった。
三十五歳。己の身体がそろそろ衰えて来たのを感じてきたからである。ハルはそもそも、戦闘面に関しては本当に弱かった。
学生の頃所属していた新体操部である程度柔軟性を持ち合わせてはいたが、そんなもの絶対的な暴力の前では無力に等しい。
少し前仕事の関係で全力疾走しなければならなかった時、以前よりも遙かに息が切れるのが早かった。
若い頃のようには動けなくなったのだ。情報を取り扱う部署にいる以上、最も恐れるべきは敵に捕まることなのである。
体力がもたなくなったら地位にしがみつかずにすっぱり辞めようと昔から決めていた。
仲間にそう宣言したことも多分あったのだろう、彼らは特に反対せずにそれを受け入れてくれた。
――――居場所は必ず知らせ続ける、という約束のもとに。それは仕方のないことだ。
本来組織抜けを簡単に出来るような立場ではないのだが、ある程度の約束を守っている間は構わないと許可してくれた。
元々ハルは情報部主任として顔は出さないようにしていたので、敵は勿論のこと、ボンゴレ内部の人間でさえ
よっぽど親しい相手でなければハルが情報部主任だと分からないだろうから。
折しも十一代目が中学に入学する頃だった。
結局彼の教育係であれたのはほんの少しの間だけで、彼が小学生になってからの五年ほどは、
偶然か向こうから勉学を教わりに会いに来てくれるかのどちらかしか、顔を合わせる機会はなかった。
それで良かったのだろう、と漠然と思う。
あれ以上近づいていれば「母親」としての自分が隠しきれずに現れ出てしまいそうだった。勘のいい誰かには気付かれてしまうほどに。
―――そう自分を戒めながら、昔のやりとりがあるからか懐いてくれていた彼の来訪を咎めることが出来なくて。
彼は無事中学生になった。そしてやってきたこの身体の衰え。ここが丁度いい引き際だと何かが知らせるような。
情報部の方も、周囲が納得するほど有能な後継者を育て、残してきた。彼は優秀だ―――恐らくハルよりもよほど。
だからあの部署はもう大丈夫。今のいい状態を維持できるだろうし、もしこの先また濁ったとしても、自浄できる。
もうハルに出来ることは何もなかった。情報部主任を辞めた時点で、彼の力になれないのは分かっていた。
「―――ハル。そろそろ、行くことにするよ。名残惜しいけどね」
「…………はい」
すっかり荷造りを終えた彼―――今までずっと共犯者でいてくれたハルの結婚相手は、今日、この家を出ていく。
彼との生活は本当に心穏やかなものだった。……結局最後まで”男女”の関係になることはなかった。
それはお互い、最初から分かっていたのだけれど。
ハルが健康上の理由から情報部主任を辞め、ボンゴレそのものからも遠ざかるつもりだということを告げた時、
彼はただ分かっているというように頷いて、何でもないことのように言った。――――じゃあ、離婚しようか、と。
情報部主任として綱吉の力になることもなくなるハルには、家柄も何も必要ない。
情報部主任でなくなったハルに、彼の“家”は見向きもしなくなるだろう。そうすればこの結婚を続けることに最早意味はない。
そしてイタリアで離婚するためには、まず弁護士に申し立てた上での数年の別居が必要になる。――――だから。
「ふふ、本当に現金だよねえ。十一年前とは真逆だよ。何で止めなかった、とか、使えない、とか。
最後にはお前なんか勘当だとか言って怒り狂ってたよ」
「……………」
「………うん。少し、満足したかな」
子供みたいだろう?とおかしそうに笑う彼に、ハルはただ黙って、感謝の笑顔を返した。
自分と同じく「どうしても逆らえないもの」に長年従い続け、けれど漸く今、抗うことが出来たならそれは新たな一歩だ。
彼はいっそ晴れやかな顔をしていて、それが自分のことのように嬉しい。
お互いに利用してはいたけれどその共同生活は心休まるもので、終わってみれば、このひとと結婚して良かったのだと思えた。
そこに愛はないけれど。どこかぎこちなさの残る場面が多々あったけれど。
――――いつまでも変わらないものなんて、本当はないのかもしれない。
この胸に宿り続けるこの強い感情は、今はハルを苦しめることはなくて。切ないと思うことはあっても、痛みを覚えることはなくなった。
時間が癒すとはこういうこと?あれだけ望んで手に入れて固執し続けた地位を手放しても、心は凪いでいる。
「この家は、……広すぎるかな」
「………はい。一人で住むには、広いです」
「本当にいいのかい?僕の親戚に譲る、なんて。売却して分配しても良かったのに」
「もう!私がいくら稼いできてると思ってるんですか!」
「っはは!そりゃそうだ。僕と0がいくつ違うのか聞くのが怖くなるね」
「…………使うことが、ありませんでしたし」
「――――そうだね」
諦め、だと、言われるだろうか。
綱吉は結局、後継者である十一代目が居ることを理由に全ての見合いを断り、今も独り身のまま生きている。
たとえどんな感情からであっても、ハルにとってそれは救いだった。救いにしてしまった。
だから余計ここを去るのだ―――――もう遅いかも知れないけれど。
ボンゴレから遠く離れてしまえば、いつか彼が結婚したとして、真正面から向き合う必要もないから。
「………どうか、お元気で」
「―――君も」
そうしてハルは今度こそ、ひとりになった。全てを失い―――あるいは切り捨てて?
けれど、この心に身体に強く残る記憶だけで充分、………生きていける。