君に、あの時言えなかった言葉を贈るよ。

 

 

 

その漆に躊躇う

 

 

 

六年前―――。“彼”との共同生活が終わった時、ハルはとある街の郊外に小さな一軒家を買った。

自分の家、を持つことは、そういえば幼い頃からの夢だったと思い出して。

 

ここでの生活はボンゴレに居たときより遙かにゆったりと静かに時間が過ぎていく。

ただ貯金を食い潰していくのも不安だったので、在宅で出来る仕事に何とかありついて。

このまま一生を終えるものも何だか悪くない気がしていた。

 

 

 

夕日が傾いて、辺りは少しずつ暗くなり始めている。マフィアからすっかり離れた生活を送っているハルだったが、

約束通り居場所の定期報告を兼ねて一年に一度は必ず仲間の誰かと連絡を取っている。

 

――――今日は、十一代目の継承式だった。

 

彼はどんな風に成長しただろう?育てば育つほど、どんどん綱吉に瓜二つになっていった。

せめて、そう、せめてあの子は幸せに―――なんて傲慢な考え、か。母親と名乗れず、ずっと傍に居てもやれないくせに。

 

十代目の継承式の時のように妨害などなく、今日という日を無事に終えられることだけを祈ろう。

 

 

 

 

 

 

………ふと、こつこつと家の扉が叩かれる音が聞こえた。もしかして隣のおばあさんだろうか。

一人暮らしのハルを心配してか、野菜を収穫したりすると時折お裾分けに来てくれるのだ。

一応お礼としてよく買う日本茶をお裾分けしたりして。どうやら特有の苦みが気に入ったらしく、渡す度、本当に喜んでくれる。

 

ハルは特に何も考えず、はい、と返事をして戸棚に置いてある茶葉の買い置きを掴んで玄関へと駆けていった。

 

 

――――手に持っていた袋が、とさりと乾いた音を立てて床に落ちる。

 

 

それを拾うことすら忘れるほど、……黄昏時が見せたただの幻ではないかと思うほど、いや、実際は何も考えてはいなかったのだろう。

真っ白になった頭でハルは一度、瞬きをした。しかし目の前の光景は何も変わらない。

 

六年間。……六年間、一回も会わなかった。声も聞かなかった。そうしたいと思わないようにしていた。

それでもちゃんと「生きて」いけると思ったのだ―――――あのままボンゴレで見守り続けるよりは。

衝撃に揺らいだハルの視界に、また、あの車が映った。国外の医療所でのことが今鮮明に思い出される。

 

六年間、仲間との連絡でさえ意固地なまでに彼のことを尋ねたりしなかったのに――――?

 

 

 

「…………………ツナ、さん?」

 

 

 

ありえない、と思いながら、それでも零れた呟きに、彼は更に笑みを深めたようだった。

歳を取って深みを増した美貌がハルを愛おしげに見つめている。

 

 

 

「久しぶり、ハル。――――君がいなくなってからもう、六年になるのかな」

 

 

 

―――――愛おしげに?

 

なぜ、今、そんな瞳でこちらを見るのだろう。そしてどうして、それが、…………こんなにも、怖い。

ハルはぞくりとした感覚が背筋を這うのを、頭を振ることで誤魔化した。

 

 

 

「あ、……の!でも今日は、十一代目の継承式があるって聞きました」

「うん、そうだね。………もう終わったけど」

「終わったって――――夜にはパーティーだってあるじゃないですか!なのにどうしてこんなところにっ」

「――――俺は」

 

 

 

わざとらしいほどにゆっくりと伸ばされた手がするりとハルの頬をなぞりあげる。

びくりと肩が跳ね、思わず一歩下がってしまった。しかし彼はまったく気にした様子もなく、ただ、柔らかに目を細める。

 

 

 

「もう、ボスじゃなくなったんだよ。ハル」

「――――――」

 

 

 

そう言って浮かんだ笑みは、いつか見たものと同じ……いや、それ以上に?

どこまでも優しく、そして慈しみと愛おしさに溢れているのに、―――――どこか、ほの昏い。

ハルがその表情から目を離せないでいると、突然とん、と肩を押されてたたらを踏み、数歩家の中に戻される。

綱吉はそれが自然であるとでもいうように続いて自分も足を踏み入れると、後ろ手に扉を閉めた。

 

―――――鍵、を掛ける音が、やけに大きく響いて。

 

どうしてだろう。どうして、なんだろう。………震えが止まらない。

会えて、会いに来てくれて嬉しい気持ちは確かにあるのに、それ以上にハルは何かに怯える自分に気付いていた。

 

だって全ては断ち切れた筈じゃなかったのか。遠い遠いあの場所で、己が育んできた命を取り上げられた、その時に。

あれが―――ハルと綱吉の道が決定的に分かれて二度と交わらないということではなかったのか。

 

たとえお互いがどんな感情を抱いていたとしても。口にすることは禁忌だったから――――

 

 

 

「ずっと、好きだった」

 

 

 

ぱしん。どこかで何かがはじける。

 

 

 

「そう。ずっとだよ。あの夜だって、朝なんか永遠に来なければいいと思ってた」

 

 

 

あの時間が永遠に続いたなら……違う。あの瞬間に、世界が終わってもいいとハルだって思っていた。だけど。でも。

 

 

 

「十八年。……十八年、君を奪われてたんだ。本当はあの夜から閉じ込めてずっとずっと一緒に居たかったのに……!」

 

 

 

穏やかな表情から一転、激情に支配された様子で綱吉は叫ぶ。嗚呼。思う。こんなところまで同じだったのか、と。

ハルが耐えきれずに想いを告げたなら、それを受け入れられてしまったら、一生愛人になる道に墜ちていた。

もし綱吉がそうした場合、多分ハルはあの部屋から一生出られなかった―――?

 

あの時の自分なら、閉じ込められてもいいと、そんな馬鹿な言葉を返しただろう。そしてお互いを不幸にした。

ハルが壊れるのが先か綱吉が壊れるのが先か、違いはたったそれだけだ。

今が心底幸せかと問われれば肯定は出来ないけれど。どうにもならないことだったのだと、今は強く思えるから。

 

ツナさん。伸ばしかけた手は、辛そうに目を伏せた彼の表情にすぐ穏やかさが戻る様子に途中で止まってしまった。

 

 

 

「少し時間は掛かったけど……これでもう、何も邪魔にはならない。そう思えば十八年なんて大したことじゃあないかな」

 

 

 

人ひとりが充分一人立ちできるほどの年月をあっさりそう評して、彼は軽く口元を歪ませた。

 

 

 

「――――どんどん綺麗になるね。ハル。会えなかった時間に妬けそうだよ」

「……っ…、わ、私、は……ツナさんだって、本気で四十代には見えませんよ…!」

「そう?ああ、ハルがそう言ってくれると嬉しいな」

 

 

 

駄目だ。どうしよう。言葉を交わす度に、時間が過ぎる度に。

心の奥深く何重にも鍵を掛けて閉じこめて封印してそこから背を向けた何かが、溢れ出しそうになる。

 

そして驚きは息苦しさに。恐怖は、――――あの夜覚えた悦楽に。

 

 

(…………っ!……)

 

 

頬がかっと熱くなり、思い出してしまった情景を悟られたくなくて俯いた。

そこに降る声はどこか微笑まし気な響きを持ってハルの耳に届く。………もしくは、やけに楽しそうな。

 

 

 

「そうだ……継承式は無事に終わったよ。吉治はきっといいボスになる。

――――知ってる?あの子の中身は君にそっくりなんだ」

 

 

 

優しくて、強い芯を持ってる。だから何も心配しなくていいよ。そう、全部上手くいったんだからね。

唐突に話題を戻されて思わず視線を戻すと、再びこちらを見た綱吉のそれとかち合う。

 

その蜂蜜のように甘く潤んだ瞳が、みるみるうちに歓喜の色に染まっていくのを、ハルは確かに目撃した。

 

 

 

「君を迎えに来たんだ、………ハル」

 

 

 

蕩けるような笑みが。声が。何もかもが、己の全てを浸食する。胸が詰まって何も言えずに後ずさると背中に冷たいものが当たった。

綱吉は壁際に追い詰めたハルの腕をこれ以上ない優しさで取ると、そのまま手首までなぞり、掌をその大きな手で包み込む。

 

そしてまるでおとぎ話の騎士のように膝を折って――――あの夜と同じ色を宿した瞳で真っ直ぐハルを射抜いた。

 

 

ハル。紡がれる名前は褥での睦言のように甘く、甘く。柔らかな感触が捕らわれたままの指先に落とされる。

それは神聖な誓いのようであり、……もっと別な何かにも思えた。

 

 

 

「―――――愛してる」

 

 

 

 

 

 

FIN.