今まで、本当にありがとう。
――――――「 サ ヨ ナ ラ 」
青に、溶ける
ふと、目が覚めた。目の前が何だかぼやけている。滲む視界。
自分が眠りながら泣いていたのだと気付いたのは、枕元の鏡に映る情けない己の顔を見てからだった。
とても悲しい夢を、見ていた気がする。今ではもう、その欠片さえも思い出せはしないけれど。
「朝ごはん・・・作らなきゃ、ですね・・・」
毎日毎日同じ様な朝が来る。天気の違いはあれ、殆ど何も変わらない。
起きて、食事を作って。掃除して、テレビを見たり本を読んだり。正午が来たら、また食事。
午後になると、よくツナが来てくれる。クロームも、・・・・“彼女”、も。
「ハルちゃん・・・っ!」
それは、いつのことだっただろう。あの部屋で目を覚ましてから、何日目のことだったのだろう。
午後のティータイムを一人で楽しんでいると、丁寧で控えめなノックが部屋に響いた。
ツナとも違うそれに少し警戒感を覚えたが、嫌な感じはしなかったので直ぐに扉を開けに走った。
そうして現れたのは――――涙を目一杯に溜めた大親友の、姿。
「わ、京子ちゃんじゃないですか、来てくれ・・・・っはひ―?!」
「良かった・・・!本当に良かった、無事だったんだね・・・!」
「え、あの、無事って、」
次の瞬間には、力一杯抱き締められていて。彼女は何度も何度も『良かった』と繰り返した。
「怪我したって聞いてずっと心配してたんだよ。長い間面会もさせて貰えなくて・・・っ」
「・・・・・・・・怪、我・・・?」
「でも本当に大丈夫なんだね。ハルちゃんも元気そうだし、また皆でお茶しよう?」
「あ・・・はい、オフコースです大歓迎ですっ!」
ふふ、と安心したように京子ちゃんが笑う。ハルもつられて笑顔になった。
けれど―――少し待っててと言い残し部屋の外に荷物を取りに行く彼女の背を見ながら、胸に浮かぶひとつの疑問。
(・・・・・・怪我って、何のことでしょう・・・・・・)
長い間、面会謝絶になるような怪我なんて、した覚えがない。そもそも、入院もしてない。
ここは自分の部屋で、だからここに住んでいて、ここは安全で、だから。
「あのね、ハルちゃんが好きなケーキを買ってきたの。お腹・・・空いてるかな」
「デザートはいつでも別腹ですよ!今、お茶淹れますから京子ちゃんは座ってて下さい」
その思考も、見慣れた洋菓子店の箱を見せられた瞬間に遥か彼方へ消え失せてしまった。
甘いものを食べた時の幸せな感覚が体中を支配して。しこりとなって残った“何か”に気付かないまま。
――――深く考えてはいけないと、頭のどこかがストップを掛けたように。
クロームが来たときも、扉を開けたその瞬間に力一杯抱きつかれた。
ぎゅっとされたまま何を言っても動いてくれなくて、思わず赤面してしまったのを覚えている。
何とか宥めて落ち着かせて、漸く微笑ってくれた彼女の口から、零れた言葉。
「・・・ハル、怪我はもう、いいの・・・?」
「え・・・?別にどこも、痛くはないですよ・・・?」
「痛く、ない?大丈夫・・・?」
ハルは、頷くしかなかった。何のことかと、聞く事すら出来なかった。言葉が出なかったからだ。
「そう―――良かった」
言うなりまた抱き締められる。縋るようなそれに応えて抱き返しながらも、ふと心に翳りが生まれた。
それは拭いきれない違和感のようなもの。幸せである筈の情景に置き忘れられた、何かの破片。
一度目は直ぐに忘れてしまったけれど、何故かこの時だけはいつまでも覚えていた。
クロームが帰ってからも。毎日恒例となっている、就寝前のツナの訪問の後も。
可愛いレースがついたワンピースを、肩から下ろす。
クローゼットの中には、綺麗な服が沢山あった。日本に居た頃に来ていたような、服。
それなのにとても懐かしく思ったのは―――何故なんだろう。
「でも、怪我、なんて・・・・・」
下着姿になった状態で、ハルは洗面所にある大きな鏡に目を向けた。化粧気のない顔がこちらを見ている。
『良かった・・・!本当に良かった、無事だったんだね・・・!』
『・・・ハル、怪我はもう、いいの・・・?』
蘇る声。涙。元気な自分を見て、心底安堵した様子で笑う二人。
(―――――――――う、そ)
見つけた、と言うべきか。気付いた、と言うべきか。
傷は、あった。大きくはない。でも、それはとても目立っていた。今まで気付かなかったのが可笑しい位に。
恐る恐る手を這わせてみるが、痛みは全くなかった。左肩のざらついた皮膚、灼けた痕。
何度もお風呂に入っていたのに、ハルは自分が怪我をしていたことさえ知らなかった。
だったら・・・・・今まで、自分は何を見てきたのだろう・・・?
(嗚呼、頭が、痛い――――)