『全く、これだから東洋人は・・・・』
東洋の血を蔑視している上司に、公衆の面前で酷く叱責されたことがある。
自分のミスではなかった。
それでも言い訳しようもなくて、家に帰ってから、一人で泣いた。
(優しく慰めてくれた同僚が、自分にミスを押し付けていたことを後で知った――)
青に、溶ける
この部屋に住み始めてから、もう二週間は経つ。
今朝もハルは泣きながら目を覚ました。滲む視界を手で擦って起き上がるのも、既に日課となっている。
夢の内容は殆ど覚えていないけれど、それが悪夢であろうことは、幾度目かの朝で確信した。
「・・・・・・・ゆめ・・・?」
(でも、それにしてはやけにリアルな―――)
ほんの少し昼寝してしまった時でさえも、そんな夢を――――みて、泣きながら目を覚ますのだ。
最初こそ戸惑ったものの、今ではもう慣れてしまった。その意味は分からないけれども。
「・・・・夢、・・・ですよ、ね」
小さな呟きは、朝日に溶けて消えた。
「コーヒー。砂糖入れたら咬み殺す」
「はひ、毎回言われなくてもちゃんと分かってますよ!」
「・・・・・・ミルクも入れたら咬み殺す」
「ひ―ば―り―さ―ん―」
彼が来るのは、週二回程度。朝に来るときもあれば夕方に来ることもあって、結構気まぐれである。
何をするでもなく、ただふらりと訪ねてきては飲み物を注文し、ほんの30分ほど滞在して帰っていく。
(喫茶店代わり、でしょうか・・・・)
それでも一方的に話しかけるハルを止めはしないし、何を考えているのかさっぱり分からない。
ハルは美味しいコーヒーを淹れるべく、優しくゆっくりとお湯を注いでいった。
雲雀が初めてここを訪ねてきたときは、思わずびしりと彼を指差して大声を上げてしまった。
五月蝿そうに眉を顰める青年に多少怯えつつも開いた口が塞がらなかった。それほどおかしな光景だった。
「ど、どうしたんですか雲雀さん、それっ・・・?!」
「・・・・・・変態パイナップルに無理やり持たされたんだよ」
「すすす、凄いです・・・・!」
あの、あの雲雀恭弥が―――“見舞いに来た”のだ。両手に溢れんばかりの大きな“薔薇の花束”を持って。
そのあまりの似合いぶりに、あまりの似合わなさぶりに。ハルは思わず数分ほど思考が停止した。
――――硬直した相手に業を煮やした彼が、弱くはない力で以って自分の額を小突くまで。
コーヒーと共に小洒落た茶菓子をテーブルの上に置いた。にっこり笑って差し出すと素直に手を伸ばしてくれる。
昔でこそ味に文句を言われたものだが、今は概ね満足して貰えているようだった。
(そりゃあもう、最高のコーヒーを淹れるために頑張ったんですから!)
ある時なんて一口しか飲まずに突っ返されたこともありましたねー、なんて感慨深げに思い出す。
そんなやりとりが続くこと数回。飲み物を粗末にしないで下さいと怒鳴りつつも、意地になっていたのだと思う。
色んな本を調べて、専門店に通いつめて。専用の機械は高くて買えなくて、たくさん工夫をして。
そうして全部飲み干してくれた日が来たときには、情報部の皆と手を取り合って喜んだものである。
雲雀は怖いと思っていた。そのやり方は理解できないし、間違っていると思うことさえあるけれど。
ただどうしても、彼にだけは絶対認めてもらいたいと思って―――
雲雀の向かいで紅茶を飲みながら、ハルはふと黙り込んだ。
(あれ、・・・いま、・・・・なにか・・・・)
異変に気づいたのか、彼の問うような視線が刺さる。見られているのは分かっているのに、頭が働かない。
何だろう。何なんだろう。今、何かとても重要なことを思い出したような気がする。何か。
「・・・・ハル?」
ちょっと待って、『思い出した』?それじゃ何かを忘れていたというの?怪我のことを忘れていたように?
―――駄目。頭が痛い。頭の中で、思い出すなと警鐘が鳴る。胸が苦しい。
「ちょっと、どうしたの」
「いえ・・・何でも」
ありません、と呟く自分の声がどこか遠くに聞こえる。自分ではない誰かが喋っているようだった。
時間が来たのだろう。訝しげな顔をしたまま雲雀がごちそうさま、と言って部屋を辞したのを見送って。
一人になってから、ハルは急激に襲って来た寒さに耐えるように自らの肩を抱きしめる。
さっきまであんなに暖かかったのに。痛みも悲しみも苦しみもない世界にいた筈なのに。
(おかしい、です。・・・・ここは、一体・・・・)
ハルは初めて、この部屋で目を覚ましてから初めて――――この場所に対する疑問を持った。
だって変だ。二週間、ずっと、ただの一度たりとも、自分はこの部屋から一歩も外に出ていない。
『普通』ならそんなこと有り得ない。それに今まで何も思わなかった自分も明らかにおかしい。
(ここには確かに、生きていく為に必要なものは何でも揃ってます―――)
――――ひとつを、除いて。