頭の中で『記憶』として認識できる情報は、少ない。

自分が情報部主任だというのも己の幻想かもしれないと思うほどに。

 

在るのは、イタリアに来るまでのことと――――この部屋に入る直前のこと、だけ。

 

 

 

 

 

 

 

流行の化粧は落とした。流行の髪型も、やめた。踵が高くて細い素敵な靴も、辺りに放り出した。

体に纏わりつく可愛くて綺麗な服をばさりと脱ぎ捨てる。飾り気のない下着姿になって鏡を見つめた。

 

 

(傍にいられるなら、何もいらなかった)

 

 

肌色のストッキングを手に取る。これだけは何故か新品で、クロームらしいと笑みが浮かんだ。

滑りの良い素材で作られたそれは、足を引き締める効果もあってか心まで引き締まる気がする。

 

綺麗にアイロンが掛けられたシャツ。染みひとつない真っ白なそれ。

身だしなみだけはきちんとしておこうと、毎日必死で洗濯していたような気がする。

 

こちらもまた皴ひとつない黒いスカート。いざというとき走りやすいようデザインを考慮したもの。

それならパンツスーツでも良かったけれど、どこか自分には似合わないような気がした。

 

 

(―――ただ傍にいることさえ出来ないなら、私は。)

 

 

 

本当は、どんな格好をしていたかなんてあまり覚えてやしないのに。

 

 

 

 

 

 

 

ハルは上着とネクタイだけを残して着込み、スリッパのまま洗面所に行って化粧箱を手に取った。

この姿で、化粧をするということ。あまり愉快な気分にはならなかった。

 

そもそも必要最小限になるし―――少し濃い色を選びたくなる。その必要があったからか。良く分からない。

 

 

 

「『化粧と涙は女の武器』・・・でしたっけ」

 

 

 

誰かの台詞を呟きながら最後に赤みの強い口紅を引くと、何だか強くなれたような錯覚を感じた。

少し伸びた髪は、黒いゴムを使って後ろでひとつに括る。装飾はいらない。

 

ものの十数分で支度は済み、改めて鏡を見ると、可愛気のない女がこちらを見ていた。

 

その姿があまりにも滑稽で自嘲の笑みが零れる。・・・笑うと少し、雰囲気が柔らかくなった気がした。

 

 

 

ネクタイは迷ったりしたけれど、今日は気合を入れるためにもきちんと締め付けた。

上着に袖を通して―――襟を正す。衣装を着込めば着込むほど、頭が冷静になっていく。

 

 

山本への二つ目の頼みごと。それは、今すぐ獄寺を呼び出して貰うことだった。

きっかけは今朝来たリボーンからの伝言である。

 

ツナは今執務室で見張られながら仕事をしている。缶詰状態で、終わるのにはそう時間は掛からないと。

 

 

そうなったら必ず真っ先に――――この部屋に来るだろうこと。

 

 

嬉しくなかったわけじゃない。それが同情からくる行動だとしても、喜びを覚えなかったわけじゃない。

 

 

 

「もう、終わりにしましょう。ツナさん・・・」

 

 

 

痛みも苦しみも悲しみのない世界。そこにいれば確かに“不幸”になることはないだろう。

でも世界に嬉しいこと楽しいことしかないのなら、それを幸せとして認識することなど出来なくなっていくのに。

 

人間は環境に応じて変化する。周りに合わせて慣れようとする。幸せもまた然り。次第に、慣れていくのだ。

 

 

 

ハルは一度だけ大きく息を吐いて。

白い布から取り出した黒光りのする塊をしっかりと握り。

 

 

安全装置を外してから――――履き慣れた靴に足を突っ込んで、扉の方へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足音には、やはり人それぞれ特徴がある。

特にリボーンは殺し屋というその職務上、殆ど足音を立てることはない。

 

ツナも雲雀も、山本も骸も・・・了平も、クロームも京子ちゃんも、他の皆もそれぞれ違った音を持っている。

 

 

『彼』の、足音は。彼本人の感情がとても良く表われているように思う。

イラついていたり怒っていたり、急いでいたりして。・・・・今日もまた、その力強い足音が近づいて来ていた。

 

 

(・・・・・・・・・獄寺、さん)

 

 

昔はずっと反発しあっていた。彼の言葉に何度も噛み付いた。何度も突っかかられた。

それはあの人の口が悪いから、とか、がさつで乱暴者だから、とか。色んな理由を作っていたけれど、本当は違う。

 

ハルはただただあの青年が羨ましかった。ツナの隣に立つことのできる彼が羨ましかった。

 

 

どうあがいても得られることのないものを、彼が持っていたから。

 

 

(私は、決めたんですよ―――)

 

 

ずっと前、ハルがイタリアに来ることを一番猛反対したのも獄寺だった。

ぶつけられた言葉はいちいち正しくて、反論できなくて。それでも押し切った自分を苦々しく見ていた。

 

それでも何年か頑張っている内に、漸く認めてくれたのに。主任になった時もぶっきら棒に褒めてくれたのに。

 

 

 

「おい、ハル。入るぞ?」

「・・・・・・・・・・どうぞ。"開いて”ますよ、獄寺さん」

 

 

 

控えめなノックに控えめな声。訝しげな色が濃いものの、そこまで警戒している様子じゃない。

内側から鍵は掛かるけれど、外側からも鍵が掛かっている。それに気付いても疑問を持たなかった日々を思いながら。

 

横にスライドするように開く扉の端に立ったまま、ハルはじっと身を潜めていた。

 

 

 

やがて電子音が響いて、ロックが解除されて。慣れた気配が一段と強くなって。

 

彼が―――生涯のライバルと決めた彼が、部屋に一歩足を踏み入れた、まさにその瞬間に。

 

 

 

 

「――――動かないでください」

 

「っ、な・・・?!」

 

 

 

微かな音と共に、銃を突きつけた。こめかみから少しずらした後頭部。簡単に反撃を食らわないような、絶妙な位置。

 

 

 

 

・・・・・・どこかで、何かが、がらがらと音を立てて崩れていく。