確かにそれは、『我儘』だった。

 

(でも、誰の?)

 

 

 

 

 

 

深い深い海の底に、ゆっくりと沈んでいくような。

うまく―――息が、吸えない。 『・・・・お別れしましょう』 声が耳元で泡のように弾ける。

 

意味が理解できなくて綱吉は一度瞬きをした。ハルは。彼女は、ただ―――笑って。

 

 

 

「十年って長いようでいて、結構短いものですね。私にとってはあっという間でした!」

 

 

 

明るい弾んだ音が降る。そこには一点の曇りも、迷いすらも感じられない。

彼女は何を言っているのだろう。・・・酷く楽しげに、何の話を、しているのだろう。

 

 

 

「お別れするのはもちろん悲しいですけど。ずっと我儘をきいてもらったんですし、文句は言いません」

「――――――――」

「ええ。いい機会だと、思います。いつまでもずるずる引き延ばすよりはきっと」

 

 

 

ありえない。一瞬、そんな言葉が浮かぶ。

別れるのが悲しいと彼女は言った。別れると言ったのだ。誰が?・・・・誰と?

 

 

(ありえない・・・はは、冗談、・・・だろ?)

 

 

綱吉は反射的に笑い飛ばそうとして失敗した。口の端が震える。まさかそんなこと、あるわけがない。

ああそうだ単に試しているだけなのかもしれない。驚いてろくに反応できなかったから怒って揶揄おうと―――

 

 

 

 

「だから、さよならです」

 

 

 

 

泣きたくなるほどの優しい笑みと共に静かに紡がれた言葉。

 

ボンゴレの血に潜む超直感の力は、それが嘘ではないと告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

獄寺の手から滑り落ちたライターがアスファルトに落ち、かすかに硬い音を周囲に響かせた。

意識の外でその音を拾った雲雀は、唖然とした表情を隠すことも出来ずに二人を、・・・正確にはハルを見つめる。

 

 

 

「な、・・・なあ雲雀、今の、冗談・・・・だよ、な?」

「・・・・・・・・・・・。・・・・僕に聞かないでくれる」

 

 

 

狼狽しきったまま声を上げた山本を言下に切り捨てるが、しかしそれ以上に言葉が続かない。

 

別れるのだという。あの『三浦ハル』が。『沢田綱吉』と。

十年前から日々恥ずかしげもなく彼が好きだと全身で表し、ついにはイタリアまでついてきたような彼女が。

ろくに戦えもしないくせにと馬鹿にしていたが、気付いたときには情報部主任にまで上り詰めていた彼女が。

 

その十年にも亘る努力は一体何のためだったのか?問うまでもない。

 

雲雀達に、はたまたボンゴレの誰にだって文句を言わせないような資格を手に入れるためだ。

ボスである沢田綱吉の傍にいたい、力になりたいというその一心で。

 

 

 

そして彼女は見事それをやり遂げた。―――そこまで見せられて、誰が認めないと言えただろう。

 

 

(なのに、別れる・・・・だって?)

 

 

そうならない為に、今まで努力してきたんじゃないのか。それだけは避けたかったことじゃないのか。

雲雀の知っているハルなら絶対に口にするはずのない言葉である。冗談にしたって性質が悪い。

 

 

『少なくとも、この部屋を壊すことなら・・・・出来ます』

 

 

あの時、微かに違和感を覚えたこの台詞が今になって蘇る。“少なくとも”。それは、何を意味していた?

 

 

 

「・・・・・・・まずい、ですね」

「む、どうした骸?」

「いえ。というか、非常にまずい展開です」

「・・・何の話だ」

 

 

 

自分の思考に没頭していた雲雀は、後ろから聞こえる会話に振り返った。

するとリボーンと了平、そして骸が既に集まっており、他の二人もそちらに向き直ったところで。

 

やけに真剣な顔をした骸が―――ハルの方を見やりながら、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。

 

 

 

「さっきから妙な感じがすると思っていたんですよ。術が揺らいでいる所為だと思っていたのですが」

 

 

 

飄々とした普段の姿からは考えられない位、彼は深刻な空気を纏っていて。

何か重要なことを言おうとしているのは分かっていた。誰もが黙ったままその先を待つ。

 

 

 

「それとは別に、同系統。いわゆる幻術の類が新たに掛けられているようです」

「・・・・うむ。さっぱり意味が分からん。それで、何なのだ?」

 

 

「つまり―――彼女が本気だということですよ。本気で、ボンゴレから離れようとしている」

 

 

「な、なにっ?!」

 

 

 

・・・何を馬鹿な。即座にそう思った。

それは皆も同じだということは、あちこちから上がる疑問の声が表している。

 

ただ、骸があまりにもはっきりと断言したことが気になる。根拠が、あるのだろうか。

声には出さずとも意思が伝わったのだろう、彼はひとつ頷いて話を続けた。

 

 

 

「まずおかしいと思いませんか。部屋を出ると決めたのなら何故、記憶を取り戻そうとしなかったのか」

「そりゃ確かに、変っちゃあ変だけどよ。焦ってて忘れてたとか、時間がなかったとか」

「・・・いや、違うな。術を解くよう薦めたんだが、後で構わないと断られたぞ」

 

「おやおや。君まで脱走に加担してたんですか、リボーン」

「悪いが加担してないのはお前だけだ」

「え。・・・・そ、それはそれで何だか傷つきますね」

 

 

「―――君達。そんな事どうでもいいからさっさと話進めなよ」

 

 

 

 

 

 

 

このままではいけないと感じながらも、見ない振りをしてきた。その罪は重い。

ハルの、痛々しいまでに明るい声を背にしながら―――守護者達は初めて、“現在”に正面から向き合う。

 

 

まだ間に合うのならば、どうか。