もう、立ち止まってもいいよね。
青に、溶ける
濡れた服が気持ち悪くて、シャワーを浴びた。(濡れた頬のほうが本当は気持ち悪かったけれど)
いつ転がり込んでも最低数ヶ月は暮らせるよう、必要なものは殆ど揃えてある隠れ家。
水道も電気も。食料だって、缶詰やレトルトなど日持ちのするものを充分にしまいこんである。
入り組んだ路地裏の片隅にそっと、何年もかけて作り上げたものだ。居心地も悪くない。
でもこの部屋で一晩明かすつもりはさらさらなくて。髪を乾かした後は、寝巻きではなくきちんとした服を身につける。
もっともマフィアが好んで着るようなものではなく、比較的柔らかい色の綺麗なスーツ。
あの部屋に入る前、つまり普段身につけていた服は真っ黒で、一般人を装うには不向きだからだ。
そして次に薄く化粧をして、休憩することもなく逃げるための荷造りを始める。
頭の中で、もう一人の自分がやけに急かすのを感じていた。急いで、一秒でも早く早く、・・・逃げなくちゃ、と。
「・・・・後は、財布と、・・・服と、・・・・・・・っ・・・」
少し大きめの鞄に必要なものを詰め込んでいたとき、ふと手に取ったものを見てハルは目を見開いた。
それは手のひらに収まるサイズの箱。大事に大事にしまっておいた、“彼”からのプレゼント。
開けなくてもありありと中身を思い出せる自分の記憶力が、今だけは疎ましかった。
―――捨てられるはずなんてない。でも、これから先持って生きていく勇気も、ない。
(――どうして)
(――どうしてこんなに苦しいの)
納得ずくの、後悔のない結果なのに。悲しくて悲しくてたまらなかった。
枯れたはずの涙は後から後から溢れ零れ落ちていく。もう、この涙を慌てたように拭ってくれる人はいない。
そう、いないのだ。どこにも。だから本当は、ここまで急ぐ必要はないと知っていた。
誰にも知られていないハルだけの隠れ家。見つけにくい工夫をこれでもかとこらした最高傑作のうちのひとつ。
(・・・・だれも、追いかけてなんかこないのに)
この場所でひっそりと暮らしていけば。そして―――いつか隙を見て、外国に逃げてしまえば。
リボーンが見逃してくれた以上、情報部の皆には上手く言っておいてくれるだろう。多分、対外的にも。
だから焦る理由なんて、ない。ボンゴレの目の届かない場所に身を潜めているならば。
「碌な用意もせずに飛び出したりしたら、・・・それこそ、本末転倒ですよね」
言葉にすることで、自分を納得させる。今にも走り出しそうな身体を抑えて。
ここから出なくてはと気が急くのは、単なる感傷に過ぎない。
そう、ただ、いつまでも見慣れた街に居続けたくなかっただけなのだ。思い出が――――強すぎるから。
冷静になれ。感情で動くな。
それは何度も言われてきたこと。力のない自分が生きていくには、思考することこそが全てだった。
犯罪者となったこれからは、更にその頭脳をフル回転させて逃げ続けなければならないけれど。
今だけ。今この瞬間だけは、その足を止めてもいいだろうか。
いつも笑顔でいたい、その理由を失ってしまったから。・・・・笑顔をみてくれる人は、いないから。
十年間決して振り返らずに走り続けた、“三浦ハル”二十数年の人生を。今日だけは、振り返ってもいいだろうか。
「っ、う、・・・ひっぅ、ツナ、さ・・・・」
小さな宝物を胸に抱え込んだハルは声を殺して、力なくソファへ沈み込む。今夜だけは、と思いながら。
そうして、いつの間にか深い眠りに落ちていった――――――
全身を叩く雨は激しさを増す一方、綱吉はとうとう一歩も動けなくなっていた。
薄暗い路地裏で立ち止まる。何故か、次に進む道が分からないのだ。超直感の力が、働かない。
「・・・・ん、で・・・っ!」
苛立ち紛れに思い切り拳を壁に叩き付けると、鈍い痛みと共に血が流れる感触が肌を伝う。
訳が分からなかった。微かに感じていたはずの力は霧散し、暗闇の中ひとり取り残される。
力そのものに頼りすぎているのか、と思った。しかしそれ以外にどんな方法があるというのだろう。
こうやって一分一秒を無駄にしている間に、どんどん彼女との距離が離れていくのに―――――
(・・・・駄目だ。諦めるな。諦めたら終わりなんだ)
逸る心を何とか押しとどめ、雨で霞む暗い道をしっかりと見据える。そして深呼吸をひとつ。
十年。
言葉にするのは容易い。ただ、それが持つ意味は果てしなく重い。
―――長い、長い十年。
今更だと、思われるかもしれない。伝えることは、自分勝手な独りよがりに過ぎないのかもしれない。
(それでも。君が今までくれたのものを、少しでも返せるなら)
待っていて欲しいとは言わない。ハルだって決してそんなことを口にしなかった。
そして、最終的には誰の力も借りることなく、ここまで辿り着いてくれた。相当な距離があったにも関わらず。
それに比べたら、今の状況なんて――――いったい何の障害があるというのか。
綱吉はすっと目を閉じて、意識を一点に集中する。
迷いがあるから道を見失うのだ。目を背けているから、真実が見えないのだ。
そんな愚かな自分とはもう、ここで、決別する。
『なあ、ツナ。―――お前は、どうしたいんだ?』
分かりきったこと。
求めているのはただひとつ。必要なのは、・・・・彼女一人だ。