自分のプライドよりも何よりも、優先すべき事があったのに。
(ああ、何て利己的な―――自分)
青に、溶ける
声を掛けられるまで、男の気配を全く感じ取れなかった。勿論ハル自身の力量不足というのもあるだろう。
しかし普通人に声を掛ける時にわざわざ気配を消す人間など居るわけがない。・・・・普通、ならばだ。
―――つまり、今ハルの背後に立っている人間は、決して一般人ではないということ。
自由の利く右手には携帯。左肩は感覚が麻痺しているのか痛みはないが、もう指一本動かすのも億劫である。
(・・・・あの三人の誰かだったら、こんな言い方はしない筈・・・・)
まさか、他にも誰か見張り役が居たのだろうか。嫌な汗が硬直した背中をゆっくりと伝い落ちていく。
ほんの数秒が数十分にも等しく感じられて、振り向くことは勿論、声を上げて雲雀に助けを求めることも出来なかった。
「この時間帯、許可がない人間は中に入れな――――・・・・・?」
「・・・・・あ、れ?でもこの声・・・・」
幾分硬く鋭く、厳しい声音で誰何してきた男は、ふと何かに気付いたように言葉を止める。
と同時にハルも、その声と気配にふと何か感じるものがあって、恐怖に強張っていた体を少し解く。
そしてゆっくりと―――酷くゆっくりと、振り向いた、その先には―――
驚いたような顔でハルを見下ろす、眼鏡をかけたヒゲ面の男のドアップ。
「は、はひ―!?」
「あんたは確か、ドン・ボンゴレのご友人・・・」
『・・・・ねぇ、誰か居るの?』
――――ハルは先程とは別の意味で硬直した。
雲雀の訝しげな声が手元の携帯から響くも、完全に停止した思考の前では何ら意味を持たない。
「あーびびったびびった、敵かと思って焦ったじゃねぇか。でも何だってボンゴレが・・・・」
幾らか警戒を解いて男は息を吐いた。手に持った銃をこっそりと懐にしまいながらハルに向き直る。
常に飄々とした態度で、キャバッローネファミリーの十代目ボスの傍に寄り添う忠義の男。
五十歳近いにも拘らずその腕と忠誠心は衰えることを知らず、未だに他ファミリーからも恐れられている。
そう、ディーノの右腕、ロマーリオその人である。
「あ、あの、私は・・・・」
ハルは思わず、殴られて腫れているだろう口元を手で覆った。それでも滲み出る血の臭いは隠せない。
どうして彼が?何の為に?彼が居る・・・ということは、ボスであるディーノも此処に来ている、ということ?
先程の“この時間帯、許可がない人間は中に入れない―――” それは一体どういう、意味?
情報部としての性からか、いくつもの考えが巡る。巡るだけで、答えは出ないけれど。
( 私 は 一 体 何 が し た い の ? )
こんなにも醜い自分の姿を、誰にも見られたくない。こんなにも情けない自分の姿を、晒したくない。
彼はきっと悲しむから。こんな姿を見せてしまったら、きっと悲しんでくれるから。
そんな姿を、見たくない。
( で は 、 何 を す べ き な の ? )
ハルは自分のその思考に息を呑んだ。何をすべきなのだろう。ボンゴレ情報部主任、三浦ハルとして。
それは。
一刻も早くボスに――――報告する、こと。『笹川京子』が危険に晒されている、と。
彼女を守る為に彼女の身代わりになったのだ。彼女の命を守りたいからこそ、自ら危険の中に飛び込んだのだ。
ならば、そうであるならば、早く彼女の安全を確保することこそが、最も優先すべきことであるはず。
自分がどうなっていようとどうでもいい。そんなこと、それこそ全然関係なかったのに・・・・!
ロマーリオが黙り込んだまま微かに震えるハルの異常に気付いて、声を上げようと口を開いた。
だが漸く本来の目的を思い出したハルは、彼に構うことなく右手の携帯を耳に当てる。まだ通話は切れてない。
「雲雀さん。聞こえますか」
思ったより低い声が出た。体の震えは止まらないが、声は冷静なことに少し安堵する。
それに応えて今度こそ本当に超不機嫌そうな声が流れてくるが、腹を決めたハルにはどうでもいいことだった。
『何時まで待たせる気?で、今の誰。先刻から何なのさ、いい加減に』
「緊急事態なんです!いいですか、雲雀さん。お願いします、京子ちゃんを守ってください」
『笹川?・・・ちょっと、何それどう、』
「状況説明は後でします!とにかく、今すぐ京子ちゃんの安全を確保してください!今すぐです!!」
なるべく冷静に、落ち着いて話を進めようとしたが無理だった。泣きそうになるのを堪えるので精一杯だ。
いきなり説明もなしに妙な事を言われて戸惑っているだろう雲雀を語気も荒く怒鳴りつける、という快挙を成し遂げた
ハルだったが、本人に自覚はない。寧ろ焦りばかりが全面に出ていて、どこか反論出来ない雰囲気を作り上げている。
雲雀が躊躇したのはほんの数瞬でしかなかった。
『―――了解。取り敢えず綱吉にかわるよ』
「・・・・・・・・・・お、お願い、します」
彼は何も聞かず、本当に動いてくれた。声が遠ざかり、何やら小さな喧騒が届く。
ロマーリオが視界から消えていたことにすら気付かず、ハルは込み上げてくる唾を何度も飲み込んだ。
いよいよ、だ。全てを話さなければならない。
『ぇ、ちょ、雲雀さん何処に行くんですか!?――――ってあの、ハル?一体どういうこと、かな?』
優しい声音で届く言葉。ほんの少し困ったような響き。懐かしさと共に何故か痛みが生まれる。
死にかけたあの場所で、誰よりも何よりも求めたもの。
―――ツナ、さん。