さあ、一歩、踏み出そう。…いっしょに。
青に、溶ける
男の人なのにすらりと長い指が、そっと額に触れる。少し冷たい感触に思わずびくりと肩が跳ねた。
それを気にした様子もなく―――骸は微かに腫れた頭を押さえつつ、にっこりと笑う。……軽く青筋を立てて。
(あ、あんなにクリーンヒットするとは思ってなかったんです……!)
綱吉に想いが伝わって、そして受け止めてもらえて。泣きそうになりながら安堵した矢先にあんなことを言われたのだ。
ハルは全身を駆け巡った羞恥に耐え切れず、近くにあった小さなテーブルを投げてしまったのである。
綺麗な弧を描いて宙を舞ったそれは……鈍い音を立てて骸に見事命中した。まさにストライクと言っていいだろう。
へらりとこちらも笑みを返しながら、ハルは再び謝罪の言葉を口にする。だが、気にしてませんよと流されてしまった。
「もういいですから。ほら、目を閉じなさい」
「はひ……」
触れられた箇所からじわりと暖かくなるような錯覚を覚えた。やがてそれは何かの映像となって瞼の裏に映る。
記憶を失ったとき、全く焦りもしない自分に驚きながら、でも確かに喪失感だけはあった。
嫌なこと、悲しかったこと、苦しかったこと。その全てをひっくるめて『三浦ハル』の人生なのだ。
どんなに辛い記憶だったとしても、それがあるからこその現在。一日一日を生き抜いてきた証。
「――――――っ――」
微妙にずれていた何かがぴったりと重なったような。浮いていた足が地にしっかりとついたような。
その感覚を言葉にすることはできない。分かるのは、失ったのではなくただ気付かなかっただけだということ。
―――悲しいわけでも嬉しいわけでも泣きたいわけでもないのに、涙が一粒、ぱたりと頬に零れ落ちた。
ありがとうございました。そう言って深く頭を下げるハルを、骸は複雑な思いで見つめる。
結局彼女は一言たりとも自分に文句を言わなかった。……記憶を奪った張本人であるにも関わらず、だ。
それとなく話を向けてみても、ハルは穏やかに笑うだけで明確な答えは得られなかった。
「あの、一度情報部に戻りたいんですけど……駄目ですか?」
「ええ構いませんよ。ボンゴレからもあなたを送っていくよう頼まれていますしね」
「そうなんですか?!ふふ、嬉しいです!」
三浦ハル。日本から沢田綱吉について来た連中の中で、明確な能力をもたない唯一の人間。
あまりにも脆く、あまりにも弱い。ただクロームが懐いているようだったので、邪険にはしなかった。
(……人間とは、分からないものだ……)
するといつの間にか雲雀恭弥の餌付けに成功し、毎月スケジュールの確認をしてはお茶会を開き守護者を呼びつけ、
気がついたときには――――情報部主任という最凶なまでに重要な職に就いていた。
血を見るだけで怯え震えていた、煩いだけだったあのか弱い少女が、だ。銃を手に取り、ここまでやって来た。
「早速行きましょう、骸さん。きっと仕事が溜まっちゃってます!ファイトです、おー!」
「ハル。肩の傷は塞がっていますが、病み上がりだという自覚を……」
「大丈夫ですよ!今だったら私、空でもばびゅんと飛べますから!」
「いや飛べませんって。……こらそこ、試そうとしない!」
「はひ、冗談ですよー?」
「……………」
小首を傾げて楽しそうに笑う彼女には、怒りではなく脱力感が湧いた。少し、安堵も混ざっているかもしれない。
ボンゴレに来てからずっと続いていたあの騒がしい生活も、一旦慣れてしまえば何ということもないのだ。
そして今でもマフィアは滅べばいいと望んでいるが――――ただ。ただ、この先を見守るのも面白そうに思えた。
(ボンゴレ十代目に恋人、ね。クフフ……)
どんな騒ぎが起こるかは目に浮かぶようだった。あるいは、また血が流されるのかもしれない。
「………お手並み拝見といきましょうか。ボンゴレ」
「え?骸さん、今何か言いましたか?」
「いいえ。さあ、綱吉君の会議が終わる前に情報部へ行きましょう」
「――――っ、はい!」
それをどう乗り越えていくかは、君たち二人の問題ですし、ね。
「あ………」
「……ハ、ル」
彼女達の姿が目に入った時、ハルは何もかも忘れて走り出していた。
そしてその勢いのままに、飛びつく。…全ての想いを込めて。二人が居なければ、絶対にあの部屋から動けなかった。
「京子ちゃん!…クロームちゃん!」
「…っ、……おかえりなさい、ハルちゃん」
「……帰って、きたんだね。ハル―――」
抱き合うだけで、もう言葉は要らない。何も言わなくても伝わっていることがわかる。
ここへ来る途中に骸から大体のなりゆきを聞いているので、尚更二人の身体に回した手に力が篭った。
ハルひとりでは何も出来なかった。色んな人の協力を得て―――だからこそ、望む未来を手に入れたのだ。
しっかりと抱き締め返してくれる二人の体温が暖かい。それはどんな言葉よりも安心感をもたらしてくれる。
……暫くの間、そのままでいて。ふ、と、そよ風のように囁かれた、京子の願い。
「ハルちゃん。どうか―――幸せに、なって」
涙で滲む視界の中で、ハルはただただ頷くことしかできなかった。