最初は分からなかった。それが、どういう意味を持つのか。
そして妙に彼女を意識している自分も、まったく理解出来なかった。
あの日―――そう、あの日。
全てが動き出したあの日見た彼女の笑顔を、俺は一生忘れない。
「えーと、この資料ですね!あ、じゃあついでにこれもお願いします」
「………………」
「それと帰りに山本さんの所に行ってこの予算表を―――」
適当に本日分の仕事を終え、情報部主任に報告書を提出しに行ってから早二十分。
満面の笑みで迎えられた俺は即座に回れ右して逃げようとしたが間に合わず、
彼女と向かい合うように座らされ、第一声から説教を喰らった。
勤務中に何度も抜け出す・締め切りを守らない等、心当たりはいくらでもある。
だからこそ懇々と続いた耳の痛い説教を我慢したのであり、口も噤んだ。
しかしその罰として新たな用事を言いつけられたのではたまったものではない。
面倒事はごめんだ。流石にはいわかりましたと頷くわけにもいかず、
小さい身体からぽんぽん飛び出す指示に俺はげんなりとしつつ口を挟んだ。
「ついでついでって……俺ひとりに何でも押し付けるなよ」
「はひ、押し付けてませんよ!これは元々あなたの仕事じゃないですか。
面倒がって放り出したの知ってるんですからね、ちゃんと働いて下さい!」
「断る」
「駄目です!」
「い・や・だ」
「…………うう。でもこれ以上点数下げると、給料下がっちゃいますよ」
「…………………」
給料。それは、正直、痛い。
クビにならないぎりぎりの線でサボってきたつもりだが、そろそろ限界か?
俺の沈黙をどうとったのか、主任はまたにっこりと笑って小さくガッツポーズした。
―――多少嵌められた気がしないでもないが、仕方がない。
お願いしますね!とぶんぶん手を振って見送ってくる彼女に聞こえるよう
わざとらしく溜息を吐いて、大量の資料を両手に持ち、ゆっくりと部屋を出た。
情報部主任。三浦ハル。
ボンゴレファミリーの子会社から引き抜かれてきた俺にとって、彼女が
そんな役職に就いていること自体が不思議だった。何の冗談だと、思った。
ただ一ヶ月もその下で働いていれば、その能力も納得するレベルだと気付く。
あまりにも若すぎるという点は、いつまでもしこりとなって残っていたが。
良い噂がある一方で悪い噂もある。もちろん深く詮索する気はない。
適当に仕事をこなし、給料を貰って、適当に生きていければそれでいい。
――――そう、思って、いた。
「はひ、三日ぶりですね!おかえりなさい―――さんっ」
「ただいま、ハル。元気そうで良かった」
言われたことを全てやり終えて情報部に帰る道すがら、ふと、声が聞こえた。
一人は主任だとすぐに分かったが、もう一人がどうにも分からない。
それが何故かとても気になり、足を止め、声がした方に顔を向ける。
――――瞬間、俺は目を見開いて息を呑んだ。
遠目に見ている筈なのに、そこだけ切り取られたかのような感覚。
廊下の片隅で主任と……一人の男が向き合って、楽しそうに笑いあっている。
あれは、あの男は、そう、ボンゴレファミリーの十代目ボス――――
しかしその驚きは即座に掻き消え、別のものに意識を奪われた。それは。
この一ヶ月間ほぼ毎日共に居て、一度さえも見たことがない彼女の笑顔だった。
明るいだけではない。楽しさと嬉しさと………どこか、愛しささえ滲むそれ。
ざわり、と。心の奥底で何かが打ち震えるのを感じる。
一体それが何なのか考える気も起こらない。ただ思うのはひとつだけ。
脳裏に焼きついた彼女の笑顔と、それを見て柔らかく笑い返すあの“男”。
ああ。俺は、あんたが嫌いだ。