こんなことを望んだわけじゃない。
最後に残った、紅い雫。
「……………っ……!」
ハルは走っていた。息を切らせて、逃げていた。木々の間を、石畳の道を、薄暗い路地裏を。
この間新調したばかりの靴は踵が高すぎて、とうの昔に脱ぎ捨てた。破れたストッキングが嫌な感触を伝えてくる。
全ての始まりは―――数ヶ月前、勤めていた会社から突然提示された出張の話だった。
行き先はフランス。さる有名な企業からオファーがかかり、会社総力を挙げての海外進出を決めたという。
その話がハルに流れてきたのは、所属部署内で最も英語が堪能で、他に数ヶ国語にも精通しているからだそうで。
会社の命運が掛かっている、と頼られてしまい、そもそも断る理由がなかったことからその話を引き受けた。
――――海外進出の話そのものが、最初から仕組まれていたものだと知りもせずに。
“彼”とその友人達は、高校卒業と同時にイタリアへと渡った。
ついていけるとは思わなかったし、事実、ついていきたいと言えなかった。行かないでほしいと引き止めることもなく。
ただ黙って見送って――――終わりに、した。約五年続いたその関係に終止符を打って、思い出にすることを選んだ。
(……それ、なの、に……っ)
ふと目に付いた建物の窪みに身を潜めて息を殺す。……数秒後、誰かが傍を駆け抜けていくのが分かった。
ハルは今、追われている。誰にかは分からなかったが、数人の規模ではないことは明白だった。数十人、いや、もっと。
今日の夕方――いつもと同じように業務を終え会社を出ようとした途端、見も知らぬ集団に取り囲まれた。
その手に握られた凶器に頭が真っ白になり、咄嗟に鞄で殴りつけ走り出してしまったのがこの追いかけっこの始まり。
あれから何時間が経ったのだろう。止まれと声を掛けられるたびに恐怖が噴き出し、更に足を動かして。
終わりの見えない行為。捕まれば―――殺される?そんな思考が頭を過ぎった。でもたぶんそれは違うのだろう。
男達が何度も口にした『ボンゴレファミリー』という名は、鋭い痛みを伴ってハルの心に刺さる。
“彼”と、その仲間達。彼らが所属しているというマフィアの名を呟く連中に、執拗に追われる自分。
捕まれば―――きっと。
きっと。
もしこの出張の行き先がイタリアだったとしたら、ハルは何としてでも断ったかもしれない。
出会うかもしれないという、己の未練がましい願望が見え隠れするその可能性が本当に怖かったからだ。
万が一、入国する時点で情報は伝わっているだろうから億が一、もし、出会ってしまったとしたら。
……なんて、くだらないこと。あの日空港で、さよなら、と言われた瞬間から分かり切っていた。
さよなら。そんな簡単な言葉で、生きる世界が変わってしまった。この手はもう届かない。
ああこのひとはこれからどんなことがあっても、けっしてわたしにあおうとはしないだろう――――。
そうだ。既に断ち切れたのだ。三浦ハルというちっぽけな人間と、“彼”との繋がりは。
「……探せ、まだ近くにいるはずだ!」
「相手は素人の女ひとりだぞ?!何を手間取っている!」
彼らが今どこで何をしているかなんて知らない。元気でやっているかどうかさえ、知る由もない。
暗闇に響く声から逃れるように、ハルは耳を塞いだ。何も知らない―――何も知らない。知る権利さえ、ない。
何度も言い聞かせるように同じ事を繰り返しながら、……頭の隅で冷静な自分が次々と疑問を生み出していく。
ハルが日本で就職した会社はなぜ、フランスに支店を出した?突然海外などと、あまりにも話が急すぎる。
それに伴う巨額の投資はいったいどこから?有名な企業だからと言われて、特に今まで気にすることもなかったけれど。
そういえば、部署は違えども日本から一緒に来た同僚は今、何をしているのだろう。まさか……。
(どうすれば、私は、どう……っ!)
走り続けながらも放さなかった鞄を胸に抱き締め、ハルはぎゅっと目を閉じる。
当面の生活費と所用があって持ち出していたパスポートが入ったそれを、絶対に手放すわけにはいかなかった。
ボンゴレの名を叫びながらイタリア語で会話する連中は、日本で時折皆を襲ってきた人間と同じ目をしている。
マフィア―――。冷徹な表情で躊躇いなく凶器を構えていた姿が目に浮かび、思わず身体が震えた。
これからどうすればいいのだろう。連中は会社の『中』で、帰ろうとしていたハルを取り囲んだのだ。
ビルの出入りには在籍証明カードが必要なのに。無理に入ろうとすれば警備員がすっ飛んでくる状況で。
考えたくはないが、会社ぐるみだと思った方がしっくりくる。それでは明日から会社に行くわけには………。
嫌な考えだけが頭を巡り、ハルは一度溜息を吐いた。気付けば、いつの間にか足音や話し声が聞こえなくなっている。
逃げ切れたのだろうか。いや、まだこれからも逃げ続けなければいけないのか。
「………ぃ、た………」
身じろぎすると足の裏が痛む。ストッキングが破れてむき出しになったその部分は、石かガラスかで切ったようだ。
額から頬へと流れ落ちたのは本当に汗だったのか。辺りは依然暗く、そんなことすら確認できない――――。
……ふと、視界が歪んだような気が、して。
咄嗟に近くにあったなにかを掴み、体勢を立て直そうとした、その時だった。
「―――――え?」
間の抜けた、声。耳に届いたそれは、はっきりと分かるくらい戸惑いに満ちていた。
瞬間、全身に鳥肌が立つ。心臓が止まりそうになるほどの衝撃。この声はまさか、ああ、まさか………!
ここはイタリアじゃないのに。フランスなのに。もう何年も会ってないのに。あの日『さよなら』したのに。
絶望にも別の何かにも似た感情が、涙となって溢れ出す。その雫は血と混ざり合って頬に紅い痕を残した。
「……ハ、ル………?」
ツナさん。
そう応えることが出来ないまま――――。